完顔 秉徳(かんがん へいとく、? - 天徳2年4月12日(1150年5月10日))は、金の宗室。女真名は乙卒。実力者だった有力皇族の秦王粘没喝(宗翰)の孫で、父は設野馬。
経歴
第3代熙宗合剌(ホラ)の治世下で西南路招討使となる。後に汴京留守・兵部尚書に昇進した。皇統6年(1146年)に参知政事に昇り、のち平章政事に昇った。やがて迪古乃(テクナイ、後の廃帝海陵王)・太宗ウキマイの孫である烏帯(ウタイ、完顔宗言)と熙宗の婿である唐括弁らとともに熙宗の廃立を謀り、熙宗を寝殿で惨殺させた。秉徳の本心は自身の即位であったが、僕散思恭の脅迫で海陵王の擁立に回った。海陵王が即位すると、この功績で左丞相・侍中・左副元帥に大累進し、蕭王に封ぜられた。
だが、海陵王は権力欲の強い秉徳を警戒し、秉徳は天徳2年(1150年)、行台尚書省事として左遷された。やがて秉徳は烏帯と敵対し、縁戚関係であった尚書令史の蕭玉と烏帯の伯父である阿魯(アル、完顔宗本)と共に謀反の罪で誣告され、海陵王の命で逮捕されて投獄された。同年4月、蕭玉・阿魯と共に燕京の処刑台で処刑され、晒し首になった。
誣告した烏帯は、秉徳の財産と娘を自分のものにしたという。
関連系図
脚注
注釈
出典




