遠藤 胤城(えんどう たねき)は、近江三上藩の第6代藩主、和泉吉見藩主、三上藩遠藤家11代。茶人。明治11年(1878年)正月、遠藤氏の旧姓である(とう)胤城を名乗った。第5代藩主・遠藤胤統の三男。母は小谷氏。正室は堀親寚六女・教子。子に東胤禄(長男)、東常任(次男)、娘・鍈子(酒井忠宝正室)、娘・富貴子(居初富三郎室)、娘・昭子(山田軍太郎室)。官位は従五位下、美濃守、備前守、但馬守。死後に正三位。

生涯

摂津国大坂城玉造口(現・大阪府大阪市中央区玉造)にて生まれる。弘化2年(1845年)12月19日、父の養嗣子になっていた胤昌の養嗣子となる。しかし胤昌が家督相続せずに早世したため、安政3年(1856年)10月23日、実父・胤統の嫡孫となる。同年11月15日、将軍・徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・美濃守に叙任する。文久3年(1863年)10月7日、胤統の隠居にともない跡を継ぐこととなった。

幕末の動乱の中で、大坂城青屋口加番や講武所奉行を務めた。慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では講武所の軍勢を率いて出陣している。慶応2年11月26日、陸軍奉行並に就任する。慶応3年(1867年)3月1日、奏者番に就任する。慶応4年(1868年)1月27日、恭順の姿勢を示さず、新政府に領地を没収される。同年5月29日、領地を返還される。

明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により藩知事となるが、翌明治3年(1870年)4月14日、藩庁を和泉吉見に移して吉見藩を新たに立藩した。明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免官となる。

明治11年(1878年)正月、遠藤氏の旧姓・東氏に改姓。明治17年(1884年)の華族令により同年7月8日、子爵を叙爵した。

茶人としても知られ、素雲と号した。明治31年(1898年)、松浦詮(心月庵)が在京の華族、知名士らと設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員となる。会員は、青地幾次郎(湛海)・石黒忠悳(况翁)・伊藤雋吉(宗幽)・伊東祐麿(玄遠)・岩見鑑造(葎叟)・岡崎惟素(淵冲)・金澤三右衛門(蒼夫)・戸塚文海(市隠)・東久世通禧(古帆)・久松勝成(忍叟)・松浦恒(無塵)・三田葆光(櫨園)・三井高弘(松籟)・安田善次郎(松翁)の以上16人(後に益田孝(鈍翁)、高橋義雄(箒庵)が入会)で、世に「十六羅漢」と呼ばれた。

明治42年(1909年)11月9日に72歳で死去した。

墓所

東京都台東区西浅草の長敬寺。青山霊園(東胤城)。

家族

父母

  • 遠藤胤統(実父)
  • 小谷氏(実母) - 側室
  • 遠藤胤昌(養父)

  • 教子 - 堀親寚の娘

子女

  • 三男・東胤禄 (1875年生) ‐ 陸軍步兵中尉。岳父は子爵小出英尚。
  • 東常任 (1884年生) ‐ 逓信局技師。
  • 鍈子 - 伯爵酒井忠宝の妻
  • 富貴子 - 居初富三郎室
  • 昭子 - 山田軍太郎室

脚注

参考文献

  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。

遠江 萩野城[縄張図あり]城郭放浪記

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